村野藤吾という仕事@大阪
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大阪の記憶に刻まれた建築家、村野藤吾

大阪という都市を語るとき、村野藤吾という建築家の存在を避けて通ることはできない。
1891年生まれの村野は、生涯を通して大阪を拠点に活動し、この街の記憶の層に静かだが確かな痕跡を刻み続けた建築家である。
渡辺節のもとで綿業会館などを手がけ、1929年に独立後は旧そごう大阪店や梅田吸気塔など、大阪の都市景観に深く組み込まれた建築を数多く残した。
ホテル、百貨店、銀行、劇場、事務所ビル――その仕事の多くは民間建築であり、都市の日常と切り結ぶ場面にこそ、村野建築は存在している。
モダニズムから距離を取った「やわらかな建築」
戦後、日本の建築界が合理性や機能性を掲げたモダニズムへ大きく舵を切るなかで、村野はそこから一定の距離を保った。
素材の質感、曲線のわずかな揺らぎ、手仕事の痕跡。建築を無機質な構造物ではなく、人の感覚に触れる「やわらかな存在」として立ち上げようとした姿勢が、細部の随所に表れている。階段やスロープ、手すりといった身体に近い要素に、特有の美しさと親密さが宿るのもそのためだ。
機能と詩性が交差する、梅田吸気塔

その思想は、1963年に完成した梅田吸気塔にもはっきりと表れている。
地下街の換気という純粋な機能装置でありながら、楕円形の塔が有機的につながる造形は、都市の風景に不思議な余韻を残す。高層ビルの谷間に立ち、夜には街の光を反射するその姿は、実用と詩性がせめぎ合う村野建築の象徴のひとつだろう。
「社会的芸術」としての浪花組本社ビル
東心斎橋に建つ浪花組本社ビルもまた、村野の資質を雄弁に語る建築である。
左官業を本業とする企業の本社として1964年に竣工したこの建物は、八角形や箱状の張り出しを反復した立体的なファサードによって、周囲の雑多な街並みのなかで際立った存在感を放つ。
モルタルや左官仕上げの手仕事が生む陰影と質感は、商業建築でありながら、職人の技と誇りを正面から引き受けた表現と言える。
ここには、村野が「社会的芸術としての建築」と呼んだ思想が、極めて具体的なかたちで刻まれている。
1%の自由に賭けた、建築家の人生
村野は、与条件の厳しい建築において建築家に残される自由はせいぜい1%だと言い、その1%を「聖域」と呼んだという。
戦争によって最も充実すべき50代を奪われ、60代以降に数多くの名作を生み出した彼の人生を思えば、その言葉は単なる設計論を超えて響いてくる。
人生の99%は思い通りにならない。だからこそ、最後に残る1%に、建築家は全身を懸けるのだと。
大阪のなかで語り続ける建築
論理や合理性だけでは、人に親しまれる建築は生まれない。身体を投げ込み、感覚と経験を総動員して、人の記憶に静かに残る場所をつくること。
村野藤吾の建築は、大阪という都市のなかで、その仕事の意味を今も変わらず語り続けている。
作者プロフィール
森本初雄
建築家 一級建築士
moKA建築工房 代表取締役
愛知産業大学建築学科 非常勤講師
名古屋モード学園インテリア学科 非常勤講師

